2022.06.01

【対談小説 第2話 その3】自分の中に他者がいる

雨の夜

脳のメカニズムを説明する亀ヶ谷氏は「自分と他者という切り分けのない世界」という言葉を使った。この言葉の意味を尋ねると、そこには氏がかつて体験したリアルな感情にまつわる話があった。そして今、氏はそのリアルな感情を忘れることなく事業に邁進している。氏が事業として取り組んでいるアプリ「Happiness Book」についても尋ねた。
前回記事⇒思考のメカニズムと感情のメカニズムが両方とも『いいね』となるのがWell-being(ウェルビーイング)(クリックで記事へ)


さっきまで賑やかだった店内も、数組のお客が帰ったことで落ち着きを取り戻していた。
1回転目が終わったのだろう。これからもう1回転くらい入るのかな。

「さっき、自分と他者という切り分けのない世界、という話がありましたね。それはどういうことでしょうか?」

電話から戻ってきた亀ヶ谷氏に聞いた。

亀ヶ谷氏はさっきまで座っていた席に再び腰を下ろすと、ふろふき大根を一口食べ、ビールを飲んで息をついてから話し始めた。

「さっき言った思考と感情と意識のメカニズムにおいて、一番ポイントなのは、『意識をどこに向けるのかを意識しましょう』という話なんだよね。そしてその前に、『自分がどこに意識を向けているのかに気付きましょう』という話なんだ。全体マップが見えていないと、全体マップの中のここに意識が向いているということに気付けない。自分が見えている範囲でしか全体マップがないと、一部分にしか意識を当ててないことがわからないので、まずそれが必要になる」

ここで言葉を切ると、亀ヶ谷氏は再びビールをグッと飲んだ。

「ある時、僕も自分の内面に意識を向けていなかったことに気づいて、そこからすべてが変わったんだ。普段我々は外に意識を向けている。つまり、意識というスポットライトを外に向けているんだ。人の話を聞いてみたり、学校に通ってみたり、本を読んでみたり、スマホで調べてみたり。そうやってどんなに知識を得て、どんなに勉強しても、何かが足りない感じがずっと続いていた。ある時、あるきっかけがあって、自分のなかに意識を向け始めた」

野菜の天ぷら

野菜の天ぷらが来た。
揚げたてで、まだジューシーに音を立てている。
取り分け用の箸で天ぷらを取り分けながら、亀ヶ谷氏の次の言葉を待つ。

「自分のココロのなかの構造を分解していくと、感情には二種類あることが分かる。ひとつは情動。外部からの刺激や主観的情動体験で引き起こされる、コントロールできない感情のことで、外からの刺激に自然発生的に瞬間的に反応してしまう気持ちのことを言う。もう一つは二次感情だ。認知や思考を起点として引き起こされる感情の動きのことで、思考のメカニズムで『昨日あいつあんなこと言ってたな』なんて思い出したりすると想起されてしまう感情のことを言うんだ」

亀ヶ谷氏は皿に乗った天ぷらをひとかじりした。

「重要なのは、自分の情動が外部からの刺激に対してどう反応しているのかという反応モデルを知ること。情動を掘り下げて色々なことを想像しながら自分の情動がどう動くかを感じるということをやっていた時、自分が大事にしている人や、一緒に働いている仕事の仲間に何かマイナスなことがあった場合、自分がどういうふうに感じるのかをリアリティを持って想像したことがあった。そうすると、『めちゃくちゃ悲しくなる』という、自分の紛れもない情動を感じることができて、『自分だけが幸せになることはできないな』と気付いたんだ。つまり、自分の内面を掘り下げて自分の情動がどういう状態を求めているかを把握したら、自分の中に他者がいたんだよね。自分の幸せのために他者にも幸せになってもらわないと困る、って」

「自分が幸せになるためには他者にも幸せになってもらわないと困る。そのことを、『自分と他者という切り分けのない世界』と言ったんですね」

亀ヶ谷氏は黙ってうなづくと、天ぷらの続きを食べた。

亀ヶ谷氏はそういう想いで仕事に取り組んでいる。
今はSHD社の代表として、健幸度®を測定するアプリを広めていこうとしている。

「今日は『ココロの健康とお金』に関してのお考えを聞きたくてこの場を設けているんですが、SHDが広めていこうとしているアプリ『Happiness Book』にも、経済状況を聞く質問がありましたよね。「十分な収入があり、将来においても不安はない」や「安定した収入があるが、生活するのにとても不足している」などの選択肢で答える質問。あれはどういう発想から盛り込まれたんですか?」

鉄板牛ステーキ

鉄板牛ステーキが運ばれてきた。
ジュージューと鉄板の上で湯気と音を立てている。

「基本的にはココロの安定に関係する質問だね。マズローの欲求5段階説でいうと、生存欲求や所属欲求といった下位の欲求は欠乏欲求と言われていて、欠乏すると渇望する。人間には欠乏欲求が底辺にあるんだ。自分の衣食住やパートナーの幸せを自分が感じた時に、自分のココロの最低限の安定性はやっぱり必要だよね。日本は資本主義で、資本主義社会ではある程度以上の稼ぎがないと安定を感じにくいところがあると思っているので、あのような質問を入れたんだ」

4人組のお客が立て続けに2組入ってきて、落ち着きを取り戻していた店内が一気にまた賑やかになった。

「質問の選択肢はどういうふうに考えて決めたんですか?『充分な収入がある』などの客観的な事柄と、『不安がある』などの主観的な事柄の両方が入っていますよね」

「人は安定性がないと安心できない。今日収入がドンと入っても、明日からどうしよう、という状況だと、目の前にある大金は目に入らず、不安のほうが大きくなると思う。だから、足りているかどうかということと、安定性があるかということの両方を聞いているんだ」

亀ヶ谷氏はそう言いながら、まだ熱い鉄板牛ステーキにフォークを刺して口へ運んだ。

「頼んだものはこれで全部来たよね?」

テーブルの上の食べ物をひとしきり二人で食べきると、亀ヶ谷氏が尋ねてきた。
うなづきで答えると、「じゃあ、そろそろ行こうか」と言って立ち上がった。

「実はさっきの電話で呼び出されてね。これからそっちに顔を出すね。他に聞きたいことはないかな?大丈夫?」

丁寧に聞いてくれる亀ヶ谷氏に、大丈夫である旨とお礼を伝えた。
亀ヶ谷氏は悠然とレジへ向かい、手早く会計を済ませると店の外に出た。
すぐ後ろをついていく。

「それじゃ、また」

亀ヶ谷氏は店の前の交差点を軽やかに駆け抜けて、地下鉄の駅へと消えていった。
夕方から降り出した雨はいつの間にか止んでいて、雨上がりのにおいが夜の風の中をさまよっている。

(【対談小説 第2話】完)